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蛇池宝篋印塔[じゃいけほうきょういんとう]
分類 | 重要文化財 |
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指定別 | 県 |
所在地 | 海津市平田町蛇池 |
所有者 | 宝延寺 |
指定年月日 | 昭和52年11月18日 |
いま宝篋印塔のある蛇池地区は、明治5年(1872)以前は脇田村と称した。一宮市千秋町竜光寺所蔵の春日版大般若経七巻の裏面に「美濃国脇田郷増福寺」という魚形の黒印があるが、この増福寺が、江戸時代以前脇田部落の南方の字前並に存在していたと伝えられている。この宝篋印塔はこの増福寺の墓地にあったが、慶長8年(1603)の横江切れの大洪水で寺が廃絶したので、現在の宝延寺の観音堂境内に移したものといわれている。
現在は、蛇池142番地の西南隅に、東西6.70m、南北4.70mの石の柵をめぐらし、東に入り口がある。その柵内西奥の中央に大形の宝篋印塔1基があり、その前と左右に小形宝篋印塔3基と五輪塔70余基がある。
この大形宝篋印塔は、高さ1.91mの花崗岩製で、縦横1.95×1.91m、高さ0.15mの敷石上に立っている。塔の基礎(台座)は高さ0.44mで、四面に格狭間を刻し、その両縁に銘文がある。
この塔は、平安中期の武将源頼光(948-1021)の塚と言われてきた。しかし、宝篋印塔が建てられるのは鎌倉時代以降とされており、塔の形式から考えても、銘の鎌倉末期の正安2年(1300)の造立と考えられる。源頼光は国々の守を歴任し、長和年間(1012-16)は美濃守であったから、頼光塚とされたのかも知れない。この地方の豪族の墳墓か供養塔であると思われるが、本県に遺存する宝篋印塔では、最も古いものである。